サンプル(過去記事より)

WEEKLY 2021年5月9日号

バロンズ誌の創業者が残したもの

Clarence Barron Had His Flaws. But His Legacy is Impressive.

金融ジャーナリズム先駆者の矛盾に満ちた人生

ポンジの詐欺暴く一方で「泥棒男爵」称賛

Illustration by Joe McKendry

クラレンス・バロン氏は満足そうに周囲を見回した。1927年6月、本誌のインタビューで「米国は世界の金融の中心だ」と語り、「この国の銀行制度は世界一優れている」と述べた。記者にブローカーズ・ローンについて意見を聞かれると、「議論する価値はない。ブローカーズ・ローンは大した問題ではない」と答えていた。このインタビューから1年あまり後、バロン氏は死去した。そしてブローカーズ・ローン(証券会社による投資家への信用供与を銀行の融資で賄っていた)は1929年の株式市場大暴落の原因となった。

このインタビューは象徴的だ。同氏は常に虚勢を張り、洞察力に富むが盲点を持った人物だった。1921年に本誌を創刊した金融ジャーナリズムの生みの親であり、保守思想の旗手であり、実業家や政治家の相談相手であり、時代を代表する有力者であった。

公人としての長い人生は矛盾に満ちていた。チャールズ・ポンジの詐欺を暴く一方で、コーネリアス・バンダービルト氏を始めとする「泥棒男爵」(不公正な商慣習によって裕福になったとされる者)を称賛した。政治家ではクーリッジ米大統領とイタリアのムッソリーニ首相を英雄視し、「ビジネスはナショナリズムよりも重要で、広く海を越えなければならない」と言いながら、他文化に対して植民地主義的な考えを持っていた。

創刊号で「正しい情報源と方針に基づく金融出版物」を宣言

バロン氏は1855年ボストンに生まれ、10代の頃から学校の作文で賞を取り、新聞に寄稿していた。ボストン・イブニング・トランスクリプト紙の金融担当編集者であった1887年にボストン・ニュース・ビューロー紙を設立し、金融ニュースを1日1ドルで送り続けた。ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の経営に1年間携わった後、1902年にダウ・ジョーンズ社を13万ドル(現在の約400万ドル)で買収した。同氏の経営下、WSJの発行部数は7000部から4万部超に増え、バロンズ誌の発行部数も1927年に3万部に達した。

バロン氏は、ボストンの一等地に住居を構え、避暑地に別荘を持ち、裕福な生活を送った。取材先の富裕層や権力者と同じ社交界に身を置き、会話は必然的に投資の話になった。投資の情報を得ると、はばかることなくその情報を利用した。

本誌を創刊したのは、同氏がポンジによる詐欺を暴いて1年も経たない頃だ。米国は戦後不況にあえいでいた。1921年5月9日付の創刊号でバロン氏は「正しい情報源と方針に基づく金融出版物」を宣言している。

最後の言葉「今日のニュースは?」

バロン氏は資本主義は善であり、その資本主義は文明を推進する力だと信じた。小さな政府と自由市場を提唱し、1924年には減税を「国の最大の恵み」と呼び、死ぬまで「相続税」に反対し続けた。1926年には「米国のビジネスは古い労働慣行を破壊すべきで、労働組合もその一部だ。われわれは労働者に十分過ぎるほど報いている」と言い、1923年には、「バンダービルト氏のような人物が頭脳と指導力で何万人もの人々に仕事を与えている。欧州やアジアには低賃金で代わりに働こうという男たちが大勢いる。労働者は仕事があるだけ幸運だ」と書いている。

今日、同氏が外国人や人種について書いた文章を読むと驚愕(きょうがく)する。 1926年に「キューバ人4人でハイチ人6人分の仕事をすることができる」と書き、黒人活動家マーカス・ガーベイ氏を「エチオピアのポンジ」と呼び、1917年の著書では、メキシコ人を「アングロサクソン民族から学ぶべき子ども」と呼んだ。一方で、第1回アースデイ(地球環境について考える記念日)の半世紀前に「森林破壊によりわれわれの子供たちが恐ろしい代償を支払うことになる」と書き、1921年に軍縮を呼びかけるなど、当時としては進歩的な活動も行った。

バロン氏はクーリッジとムッソリーニの支配的な人格を尊敬し、「寡黙なカル」(クーリッジの愛称)を自由放任主義経済の体現者と呼んで1919年にボストン警察のストライキを中止させた気骨を称えた。ムッソリーニがローマ進軍で権力を握ると「欧州の救済者」と呼んだ。2人のその後の生涯を見届けることなく、バロン氏は1928年にカタル性黄疸で死去した。最後の言葉は「今日のニュースは?」だった。